豊田佐吉と豊田喜一郎

2018年07月26日


佐吉氏の考え方を引き継いだ喜一郎氏

偉人という存在は、どの時代においても、独特の研ぎ澄まされた勘とひらめきがあります。
その勘とひらめきを糧とし、偉業を残すのです。
その勘とひらめきは、時代に突き動かされたことは否めません。
時代がその人物を選んだかのようです。
現在のトヨタ自動車は、現在は、世界第2位の販売台数を誇る大企業ですが、その礎を築いたのが、豊田佐吉氏であり、その意思を引き継いだのが、豊田喜一郎氏です。
豊田紡織株式会社がトヨタ自動車の前身となるわけですが、その豊田紡織株式会社を創立したのが、佐吉氏であり、佐吉氏のものづくりの考え方を引き継ぎ、自動車事業を展開していったのが、喜一郎氏です。
トヨタグループの創業者である喜一郎氏は、父親である佐吉氏から、多大なる影響を受け、受け継いだものを基盤とし、自動車事業へと進出します。
このふたりの類稀な行動力が今日のトヨタグループを産み、その強固な意志は、現在も引き継がれているのです。

佐吉氏がトヨタ生産方式を産む

豊田佐吉氏は、企業家というよりも、発明家でありました。
佐吉氏は、明治時代に100万部を売り上げた「西国立志伝」(1870年刊)を読み、感銘を受け、啓発されます。
向学心が高まり、1885年4月に発明の奨励とその保護を行う専売特許条例が交付されたことに強い関心を持ちます。
そして、バッタン付き高機の改良を思い立ち、織機を発明します。
そして1890年に特許を取得するのです。
佐吉氏の目標は、動力で作動する動力織機の開発でした。
ただ自動化するのではなく、出来上がった品質の良さを維持出来ること、そして手直しによる損失を防ぐ、という意識を持ち、開発を行い、異常発生時には、自動停止することに成功しました。
この豊田式汽力織機は、織り出す綿布のクオリティーが高く、一定である、という評価を受け、注目を浴びるのです。
この佐吉氏の自動化と品質に対する考え方が、後のトヨタ生産方式の基礎となるのです。
そして、佐吉氏の思想で自動化された織機がトヨタ生産方式自動化にも、活かされているのです。
織機の受注が増加し、織機の生産をまかなえなくなり、そこで1907年2月に豊田織機株式会社を設立するのです。
しかし研究に専念したい佐吉氏と会社経営陣と間に意見の食い違いが発生し、佐吉氏は辞任してしまうのです。
しかし、佐吉氏は、持ち前のバイタリティーを活かし、豊田紡織株式会社を立ち上げ、綿製品の製造、販売に尽力することになるのです。

喜一郎氏は事業を拡大させる

1923年9月1日に発生し、大災害と化した関東大震災は、自動車の実用性を強烈に浮かび上がらせるきっかけとなりました。
この頃は、佐吉氏が紡織会社として、実績を挙げた後であり、次世代の喜一郎氏が自動車会社を志す時期であったのです。
喜一郎氏は実際、被災しており、自動車のニーズを肌で感じ取ったのです。
大災害という最悪な事態に感じたひらめきは正しかったのです。
まさかこの原点が、今日のトヨタ自動車を創り上げるとは思いもしなかったと思います。
喜一郎氏は、1933年9月1日に豊田自動織機製作所に自動車製作部門を設置します。
時代を見据えた喜一郎氏は。自動車試作の準備に取り掛かり、1934年には試作工場と精工所を開設します。
それから多くの試作品を完成させるのです。
1936年9月に自動車製造事業法が交付され、本格的に自動車製作に乗り出すことになった豊田自動織機株式会社は、豊田自動車工業を設立し、設立登記を完了し、会社としての歴史が始まったのです。
そして、今日のトヨタ自動車となるのです。
佐吉氏の意思を受け継いだ喜一郎氏は、トヨタ自動車を進化させていくことになるのです。
偉人は、強い意思から生み出したものを後世に伝えていくのです。
佐吉氏と喜一郎氏の眼には、現在のトヨタ自動車は、どう、映っているのでしょうか。
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