日産自動車の歴史

2018年08月16日


日産自動車のルーツは1911年

日本が世界に誇れるものは、たくさんありますが、自動車はそのひとつではないでしょうか。
日本の自動車は、先進性があるデザインと、繊細性が漂う神秘性が、ファンから多大なる支持を受けているのです。
世界市場では、日本車の性能の良さにファンが惹かれ、日本車は大きな人気を集めているのです。
日本の三大自動車メーカーといえば、トヨタ自動車、ホンダ、日産自動車ですが、日産自動車は、独自のカラーを出しています。
日産自動車の魅力は、魅力的なデザインと、こだわり抜いた車両技術で、車に乗る人に安心感を与えています。
日産自動車のルーツは、1911年、橋本増治郎氏が、東京麻生に設立した快進社自動車工業まで、遡ります。
1911年、橋本氏は、東京広尾に、国産自動車の生産を目指し、快進車自動車工場を設立します。
日本の交通事情に合致した小型自動車を設計するのです。
その車は、資金提供者である田健治郎氏、青山禄郎氏、竹内明太郎氏のイニシャル」を拝借し、DAT自動車(脱兎号)と命名され、発売されました。
その後、快進車は、トラック開発に取り組みますが、経営状態が悪化し、1925年に解散し、ダット自動車商会として、再出発することになるのです。
一方、大阪では、久保田鉄工所を中心として、1919年に実用自動車製造が設立されるのです。

1934年に日産自動車が誕生

アメリカ人牧師のゴルハム氏の指導を受け、三輪自動車のゴルハム号の製造が始まります。
しかし、関東大震災後に、アメリカの自動車が大量輸入され、経営が悪化してしまうのです。
そのため、東京のダット自動車協会と合併し、ダット自動車製造を設立することになるのです。
ダット自動車製造は、DATの息子という意味で、DATSONという車名の乗用車を開発します。
しかし、SONは、日本語でいう損に該当するということで、発音が同じであるDATSUNに車名が改められることとなります。
このダットサンの生産を拡大させるために、鮎川義介が設立した戸畑鋳物が資金提供をします。
この頃、戸畑鋳物は、自動車部品を製造していたこともあり、自動車工業への進出を企画するのです。
そして、ダット自動車製造を傘下に迎え入れ、その後、鮎川氏が設立した持ち株会社、日本産業と戸畑鋳物が出資し、自動車製造を設立しました。
そして、1934年、自動車製造は社名変更を行い、日産自動車が誕生するのです。
日産自動車は、このダットサンの量産に成功し、今日のポジションを築くのです。
日産自動車の本社は、現在、神奈川県横浜市にあります。
そして、フランスの自動車製造大手ルノーとアライアンス関係を築いています。

倒産危機からのV字回復

1990年代、日産自動車の経営状態は悪化します。
原因は、デザインの方向性及びマーケティング戦略の失敗が挙げられます。
その結果、座間工場の閉鎖を行い、合理化を図りましたが、赤字減少には、結び付きませんでした。
2000年3月期日では、連結最終赤字は、6843億円を計上し、倒産寸前にまで、追い込まれることとなります。
しかし、事実上の吸収合併というスタイルを取り、フランスの自動車メーカーであるルノーから、資金を入れ、歴史的危機から立ち直ったのです。
更に、ルノーから送り込まれたカルロス.ゴーンが社長に就任し、日産自動車の運命は変化していくのです。
2万1千人に上る人員削減計画といったリストラやコスト削減を徹底した結果、2011年には、3311億円という黒字へと転換していくのです。
現在では、トヨタ自動車、フォルクスワーゲン、ゼネラルモータースに次ぐ世界第4位の自動車販売台数を誇っています。
トヨタ自動車もそうですが、日産自動車は世界に轟く技術力を誇っています。
日産自動車が、世界の自動車販売台数第1位の地位に辿り着く日はそう、遠くはないでしょう。
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